「敵は本能寺にあり」
1582年6月2日未明、明智光秀の謀反によって歴史的な大事件「本能寺の変」が起きました。
天下統一を目前にしていた織田信長が、京都・本能寺にて自刃に追い込まれたこの事件は、日本史でも屈指のドラマティックな瞬間として知られています。
本能寺の変とは何だったのか?
織田信長は当時、毛利攻めを行っていた羽柴(豊臣)秀吉の援護のため、家臣たちを西国に派遣しており、京都には少数の供回りのみで滞在していました。
そこを突いたのが家臣・明智光秀。彼は約1万3千の兵を率い、突然の反乱を決行。本能寺に攻め入り、信長を自害に追い込みました。
なぜ首が見つからなかったのか?
歴史のミステリーとして語り継がれているのが「織田信長の首が見つからなかった」ことです。
本能寺は木造の寺院で、信長は焼け落ちる建物の中で自害したとされています。しかし当時の火災では、完全に遺体が消失することはまれです。
では、なぜ首がなかったのか?
一説によると、信長は自分の首が敵に晒されることを嫌い、遺体の処理を命じていたとも言われています。また、誰かが信長の首を持ち去ったのではないかという説も根強く残っています。
首を持ち去ったとされる人物たち
清玉上人(阿弥陀寺の僧)
信長と親しかった僧が、炎の中から信長の遺体を密かに運び出し、京都の阿弥陀寺に埋葬したという説があります。
西山本門寺の「信長の首塚」
静岡県富士宮市にある西山本門寺には、「信長の首がここに埋められている」という言い伝えが残っています。清玉上人がここまで運んだという説と繋がっています。
豊臣秀吉が流した「信長生存説」
事件直後、明智光秀は各地の大名に「信長を討ち取った」と知らせました。
しかし、羽柴秀吉は「信長は本能寺から逃れて生きている」と逆の情報を流します。これは光秀に味方しようか迷っていた諸将の心を惑わせ、秀吉が有利に戦局を進めるための心理戦だったと考えられています。
この混乱も、信長の首が確認されなかったことによるものといえるでしょう。
まとめ|信長の「首の行方」は今なお歴史の闇
織田信長の死は確実視されていながら、「遺体(特に首)が発見されなかった」という点が、本能寺の変を単なる政変以上の"歴史ミステリー"に仕立て上げています。
信長の首を持ち去ったのは誰だったのか。
それとも、信長は最後まで「首を取らせぬ」知略を貫いたのか。
この謎は、今もなお歴史ファンを惹きつけてやみません。
追記:歴史ミステリーVS超能力が示す謎
歴史ミステリーVS超能力 ~本能寺の変&龍馬暗殺の謎解きSP~によると、次のような興味深い情報が示されたといいます。
という事まではいわれたがそこから先は結局謎のままです。
しかも、冒頭の「明智光秀はなぜ信長を討ったのか?」「陰で誰かの指示もしくは共謀によって行われたのか」といった謎については、解決しないまま終わってしまいました。何のために超能力者を読んだのか?甚だ腹が立ちます。